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ソーセージエピソード

ソーセージの父 飯田吉英(いいだよしふさ)

ソーセージの父 飯田吉英は、明治9年(1876)茨城県新治郡戸崎村に生まれました。東京帝国大学農学実科を卒業後、神奈川県農会を経て、農商務省(現農林水産省)技師となり、実習生としてイリノイ州立大学へ留学します。この留学時代に食肉加工について研鑽を積み、帰国後に農商務省畜産試験場を任されました。この畜産試験場勤務時代に、ソーセージ職人のドイツ兵(第一次世界大戦捕虜兵)と出会い、日本で初めて本格的なソーセージ作りを学び、成功します。ここで得た知識と技術を基にその後、吉英は全国の精肉業者を集めては、盛んに講習会を行い、日本にソーセージを根付かせていきました。その他の食肉加工についても、アメリカ仕込みの最新技術を活用して、数多くの業績を挙げています。

マスター・オブ・サイエンス 飯田吉英(いいだよしふさ)  明治9年(1876)~昭和50年(1975)

畜産試験場と食肉加工の研究

【日本食肉加工の始まり】

 日本で肉製品、いわゆるハム・ベーコン・ソーセージの製造は長崎に始まると伝えられています。長崎出島のオランダ商館では、長崎名勝図絵にみられるように「猪の臘干(らかん)」が製造されていました。記録に登場するものは、長崎大浦の片岡伊右衛門が明治5年(1872)長崎に来遊したアメリカ人のペンスニからハム製造を伝授され、同年11月に工場を建設して製造が開始されます。

 一方で明治3年(1870)、開拓使次官となった黒田清隆は北海道内の食料事情が悪化したのをみて、欧米風の食生活を採用し、パンと肉食を奨励するためハムの製造に力を注ぎました。

 神奈川県鎌倉においても、明治20年斉藤満平がイギリス人のウィリアム・カーティスからハム製法を伝授され、後の「鎌倉ハム」の基礎になりました。また富岡周蔵は、明治22年(1889)に東京―神戸間の東海道線開通を機に大船駅でハム・サンドウィッチを売り出す「大船軒」を始め、当初は輸入ハムに頼っていたが、後に自家製ハムを製造するようになり大船軒のハム製造部門を富岡商会として独立させていきます。

 千葉県でも森田竜之助が食肉加工の指導者として活躍していました。森田氏は、フランス語通訳として活躍する中、フランス軍人から日本でも牧畜を盛んにした方が良いと助言され、飼育法や缶詰の製法や、塩豚の作り方などを教え込まれていきます。

 丁度、明治30年の初め頃は、食肉加工業の成立の基盤ができ始めた時期でした。ホテル・レストラン・寄港船舶・軍納による需要と外国人や西洋国の食生活を取り入れた一部の日本人の家庭消費が増加し、小市場が形成されつつある時代でした。ちなみに、日本の明治16年(1883)のハム・ベーコンの輸入量は12000kgです。

【畜産試験場の設置】

 食肉加工品の需要が高まる中、明治39年に農商務省は東京駒場に種牛牧場付属種禽種豚所を創設し、明治41年には月寒種畜牧場渋谷分場と改称されて肉加工部を設け、ハム・ベーコン・ソーセージ等肉加工品に関する製造実験を開始しました。そして、長年の願いであった畜産試験場が大正5年4月5日に農商務省内に設置されます。勤務する職員は、4月6日付で飯田吉英ほか4名の技師職員です。職員は、すべて農学におけるプロフェッショナルが採用されました。この試験場も大正6年6月1日には、千葉県千葉郡都村(現千葉県千葉市)に移されます。この千葉の試験場では、家禽部・化学部・製造部・家畜部・製造部がありました。主な事業としては、養鶏・養豚で海外から輸入した優良種を繁殖育成して、道府県や民間へ払い下げることでした。豚は、イギリスから輸入され2種が育てられました。飯田吉英は、肉製品係と乳製品係の2つから構成される製造部に属しました。肉製品係は、ハム・ベーコン・ソーセージ・ラード等の製造に関する研究のほか、食肉加工を中心とした研究事業を目的としました。

 吉英は、試験研究に重要なものであった冷蔵庫を設置して、畜産試験場の効果的な環境づくりを行ないます。そして、アメリカ留学前から実施している養豚の講習会を発展さ

【習志野収容所とドイツ兵】

 大正時代初期、第一次世界大戦が実施される中で、日本は日英同盟の関係もあり、イギリス国からの要請で大正3年8月にドイツ国に宣戦布告します。日本海軍は、ドイツ領南洋諸島を占拠し、陸軍はドイツ国の租借地の中華民国山東省の青島要塞を攻略します。戦時下においては、国際法に従い日本軍は青島のドイツ兵を捕虜として丁重に扱い、4700人に及ぶ捕虜兵を12箇所の収容所に送りました。

 習志野捕虜収容所(現千葉県習志野市)は、大正4年に開設された収容所で、473名の収容が可能でした。収容所長は、西郷隆盛の嫡子である西郷寅太郎で、敗戦の衝撃に沈むドイツ兵を励ましながら任務していたと伝えられます。そういった中で、ドイツ兵は、サッカー・テニスなどのスポーツやベートーベン・モーツアルト・シューベルトなどを楽団演奏会として開催し、単調な捕虜生活に彩りを与えていたとされます。また、収容所内には菜園がつくられ、ビールやワインの醸造も行なわれていました。その他、収容所内に印刷所を設け、日本情緒の絵葉書製作や、日本民話の翻訳本などが作られたことも伝えられています。

 この時期には、このようにして数多くのドイツ文化が日本にもたらされました。

【日本初ドイツ式ソーセージ】

 大正時代初期、第一次世界大戦が実施される中で、日本は日英同盟の関係もあり、イギリス国からの要請で大正3年8月にドイツ国に宣戦布告します。日本海軍は、ドイツ領南洋諸島を占拠し、陸軍はドイツ国の租借地の中華民国山東省の青島要塞を攻略します。戦時下においては、国際法に従い日本軍は青島のドイツ兵を捕虜として丁重に扱い、4700人に及ぶ捕虜兵を12箇所の収容所に送りました。

 習志野捕虜収容所(現千葉県習志野市)は、大正4年に開設された収容所で、473名の収容が可能でした。収容所長は、西郷隆盛の嫡子である西郷寅太郎で、敗戦の衝撃に沈むドイツ兵を励ましながら任務していたと伝えられます。そういった中で、ドイツ兵は、サッカー・テニスなどのスポーツやベートーベン・モーツアルト・シューベルトなどを楽団演奏会として開催し、単調な捕虜生活に彩りを与えていたとされます。また、収容所内には菜園がつくられ、ビールやワインの醸造も行なわれていました。その他、収容所内に印刷所を設け、日本情緒の絵葉書製作や、日本民話の翻訳本などが作られたことも伝えられています。

 この時期には、このようにして数多くのドイツ文化が日本にもたらされました。

牛膀胱整理腸詰肉截切腸詰肉填充

腸詰肉細切腸詰燻烟腸詰結束

【カールヤーンが実施したドイツ式ソーセージ製造法】

 吉英とカールヤーンのソーセージ製造実験は成功に終わり、大正7年3月19日の日付で吉英は復命書を畜産試験場に提出しました。復命書には「現在習志野捕虜収容所へ収容せられつつあるドイツ捕虜中、腸詰を以って業とせるもの5人を算す、就中カールヤーンと称する者最も其の技術に長ずるを以って、同所に於いて彼をしてドイツ国にて最も普通に需要せらるる腸詰十余種に就き其の製造を実施せしめたり。・・・・」と記され、詳細な内容を長文で書き綴っています。

 この復命書にみられるようにカールヤーンは、ドイツ国において広く製造されている12種類のソーセージを吉英に伝授しました。それらは、(1) サラミウルスト(2)メットウルスト(3)サーヴェラートウルスト(4)レバーウルスト(5)ブルーウルスト(6)ズルツウルスト(7)ブラットウルスト(8)クナックウルスト(9)ヤハドウルスト(10)ヴィーナーウルスト(11)クノヴラウフウルスト(12)グルツッウルストです。ウルストとはソーセージのことで、これらの12種類は大別すると、1年以上貯蔵可能なもの・1週間程度貯蔵可能なもの・製造後早期に食するものになります。1年以上貯蔵可能なものは、プロクソーセージといって生肉を充分に燻烟したもので、1週間程度貯蔵可能なものは、生ソーセージといって生肉を燻烟した後に水から煮沸したもの、製造後早期に食するものは、煮ソーセージといって、煮肉を作った後、さらに水煮して蔭乾させ、若干燻烟したものをいいます。

 吉英は、アメリカ留学の際や帰国後のソーセージ製造法の調査で英米の状況は周知していたため、ドイツ国のソーセージと英米国のソーセージと違う次のような点を上げています。ドイツ式ソーセージ製造法は、まず残肉を主に使用しない点、ソーセージの種類が少なく製造法も比較的単純である点、ソーセージに穀粉を混合させない点、防腐剤をしない点などを指摘し、日本では英米のソーセージ製造法よりもドイツ式のソーセージ製造法を研究し、その応用を図ることが肝要としています。

 その他、ソーセージの材料となる牛腸・皮・舌・肝臓・血・肺などの牛・豚・羊などの各部位、味付けや保存剤となる調味料・香辛料、豚・牛などの屠殺解体法、腐敗予防のための肉の塩漬法・燻烟法、出来上がったソーセージの取り扱いや荷造法、そしてソーセージ製造に係わる道具類などを事細かく、吉英はカールヤーンから伝授されました。

【ソーセージの発展と畜産工芸博覧会】

 ドイツ式ソーセージ製造法を日本人として初めて伝授された飯田吉英は、伝授された翌年の大正8年(1919)3月に、東京上野公園不忍池畔で実施されたわが国初の畜産工芸博覧会の主任審査官を務めました。この博覧会では、24,200点に及ぶ出品があり、畜産業の盛行が窺い知れます。

 この博覧会での吉英が述べたソーセージに関する講評は以下のとおりです。
「ソーセージは概して、原料肉の截切及填充法其の宜しきを得たりと雖も風味色沢に於て欠陥を有するもの多し、将来一層の改良を加へて残肉利用の一法となすこと極めて緊要なり。」(同博覧会報告書)

 このように、当時のソーセージ製造のレベルは吉英が思うようなものではなかったことが分かります。しかし、大正10年(1921)の畜産博覧会(吉英:肉豚審査官)、大正11年(1922)の平和博覧会(吉英:審査員)大正14年の(1925)の第2回畜産工芸博覧会と日本の畜産業界の発展を促す事業が順次開催され、その都度吉英も指導に当り、ソーセージの質も上がり、生産も増加していきました。

参考資料

【現在の食肉加工品の生産量】

 有限責任中間法人食肉科学技術研究所によりますと、下記の推移でハム・プレスハム・ベーコン・ソーセージが生産されています。
 ここ10年間において、ベーコンは僅かに生産を伸ばしていますが、ハム・プレスハム・ソーセージは生産が減少する傾向にあります。食肉加工品全体でみても平成10年から19年をみると4万トンも減少していることが分かります。
 これら食肉加工品生産量の減少の背景は、中国産食肉加工品の輸入が筆頭にあげられます。安価な中国製品は、現在年間約3万トンの輸入量となりました。その他、消費者の需要の低下があり、その理由として高齢化する人口構成が影響していると言われています。

食肉製品の生産量(平成10~19年)
単位はトン

 
ハム
プレスハム
ベーコン
ソーセージ
合計
平成10年
123,607.4 
 28,914.9 
78,074.3 
297,327.4 
527,924.0 
平成11年
 124,370.6 
28,347.4 
76,517.8 
292,877.8 
522,113.6 
平成12年
124,222.2 
25,807.1 
77,768.1 
292,605.8 
520,403.2 
平成13年
120,173.6 
26,134.6 
75,840.9 
296,928.5 
519,077.6 
平成14年
 110,672.7 
28,438.8 
74,710.5 
289,187.0 
503,009.0 
平成15年
108,675.7 
28,946.6 
70,494.2 
282,382.0 
490,498.5 
平成16年
111,100.5 
29,207.3 
75,468.1 
287,802.7 
503,578.6 
平成17年
109,938.4 
 29,076.7 
76,287.4 
278,497.4 
493,799.9 
平成18年
107,473.0 
28,789.8 
78,240.6 
276,152.5 
490,655.9 
平成19年
104,196.9 
28,546.3 
78,908.7 
268,930.3 
480,582.2 

【現在の食肉加工品の生産量】

 ソーセージは、豚・牛などの肉をひき肉にして作られています。ひき肉が粗めであると歯ごたえがあるものとなり、細かくする滑らかなものとなります。また、いろいろな肉や野菜などを混ぜ合わせたりすると、いろいろな種類のソーセージができます。そして太さによって、次の種類があります。

  1. ウインナーは、羊の腸に詰めた最も細い(直径20ミリメートル未満)ソーセージです。
  2. フランクフルトは、豚の腸に詰めた少し太め(直径20ミリメートル以上36ミリメートル未満)のソーセージです。
  3. ボローニアソーセージは、牛の腸に詰めた最も太い(直径36ミリメートル以上)のソーセージです。

 現在のソーセージの作り方は、整形(原料をひき肉にします)・塩せき(原料肉に塩せき剤を加えて熟成させます)・混合調味(香辛料・調味料で味付けをします)・充填(皮に詰めて形を整えます)・乾燥くん煙(煙でいぶします)・蒸煮(湯や蒸気で中心部まで加熱します)・冷却(急冷却します)・包装と検査を経て完成です。

資料提供:かすみがうら市郷土資料館